2008年05月06日

花日記2 皐月の花日記

葉歩花庭 034.jpg大好きな季節がやって来た。
枝の花が終わり新しい緑の季(とき)
落葉樹の新しい葉が若くみずみずしく柔らかい。
まださほど大きくなってない葉は遠く見ると
明るいグリーンが霞のように見える。
夏のように覆いつくされていない枝葉の間から、ちょうどいい温度の風が景色がぬけてゆく。
自宅から葉歩花庭まで自転車で50分の通勤路。 この季節が一番楽しく短く感じる。
もう4年通い続けるこの道を 四季それぞれに違う顔を見せてくれる植物に会う為に ルートを変えることもしばしば… 例えば椿坂の定家葛(ていかかずら)その甘く青い香りは、夜の湿った空気にこそ冴えるもの、初夏になるとこの道は帰りまでとっておく。すると夜にだけ咲く鳥瓜の花にも会える。
目白の小学校の山法師(やまぼうし)。深い支脈にひらひらと反る葉、柔らかな質感の白い花は風車の形。その清潔感は遠回りしても見たくなる。光の射し込み方も丁度いいのだ。葉歩花庭 008.jpg
大隈講堂の銀杏の木。自由にのびやかに立つ高木、その表情は四季を通してドラマティック。もしこんな木の元に店があったのなら凝った外装なんてしないだろう。四季折々に見せる自然の表情にはどんなデザインを持ってきても適わないと思う。 この銀杏の木を前にすると走り去れず、立ち止まり、そしてまた振り返ってしまうほどの存在感。
男性のよそ見運転での事故は美しい女性に見とれていて…のケースが少なくないと何かに書いてあった。
私の場合だったら間違いなく植物に目を奪われてのことだと思う、気をつけなくては…
東京で育ったせいもあるからか 気がつけばいつも少しの緑を目で追いかけている。
緑は憧れ、私に安らぎと潤い、心地良さ、そしてエネルギーをくれる。だから私は葉歩花庭に緑を持ち込む。
そして店先の僅かなスペースにも緑を咲かす。花の一瞬の美しさは特別で魅力的だが私にとっては日常の健康な緑の葉が大切。
                                                        
葉歩花庭 320.jpg葉歩花庭という店名は、私の生け花の師の教えで「葉が歩んで花になるのだから大切なのは葉です」 と毎時間言い聞かせて下さった。
その言葉が元になっている。「花は文字通り草が化けたものにすぎないのでさほど重要ではない。葉という文字は草と世と木と書く。
この世は草と木でできている事を表す。」 大切な言葉。
草と木がなければこの世は存在しない。
だから今壊れかけているこの世に緑化が進められている。人間は植物に見捨てられたらこの世で生きられないのだから。
「花に魅了されたら花は生けられない。葉を見つめなさい、葉の部分(土台となる見えない部分)奥の仕事を丁寧にしなさい、すると奥行きがでる=奥の深い作品になるのだから」
この言葉は私の心にすっと深く入り込んでいった。 それは生け花以外のことでも全てに通じていると感じ、以来何をするにせよ根本の仕事を丁寧にしていこうと心がけている。
花の教えをシェフに話すと、全くもって自分の料理(和食の考え方)も同じだと言う。シェフにとってお客様の手元へ届ける皿は言わば花である。それ迄に施される作業は葉の部分に当たる。それは目立たず見えないが様々な工程が繰り返される。何かを飛ばし、手を抜き、雑な仕事をしてしまえばそれなりの味にしかならない。そしてそれは花とは言えないだろう。やはり奥の仕事が何よりも大切だ。
葉歩花庭 024.jpg会席料理も生け花も旬を素材とし、季節を反映させていく作業であり、そして一度命を絶たれた素材を自分を通し生かしゆくことに神経を集中する。
それはとても緊張する作業だ。生かすことができれば幸せを感じられる。この充実感は素晴しいがその逆もある。それにはとても罪を覚える。どうにも出来ない事もある。
それは経験として生かしていくしかない。自然からの恵みを頂き、それを生かせることが出来るように日常である葉の部分の仕事を丁寧にしていきたい。
いらしていただけるお客様へ 花を届けられるように想いを込めて…
羽深という名字を葉歩花庭という字にあてた。

<私の生け花の師>
「フロムネイチャー」主宰 神田隆先生
花を通して「自然と生命」「循環と共生」をテーマにそこから広かる多様な世界に目を向け
人々の暮らしに役立つライフスタイルの提案を行っている。

posted by naoko at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 花日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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